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父が若き日に乗り組んだ遠洋マグロ漁船(イメージ)
若き日の父 敏明
石巻の海に根ざして。一隻の船から始まった航跡
私たちのルーツは、昭和21年(1946年)、宮城県石巻市の海から始まりました。代々、漁業に携わる家系で、先代の船長である父もまた、その生涯を海に捧げた一人でした。
中学を卒業後すぐに、多くの弟妹を養うため船員となった父。遠洋マグロ船の船長として世界中の海を巡った後、故郷の網地島(あじしま)へ戻り、旅客船『第七久丸』の舵を握りました。
『第七久丸』は、子供たちのスクールボートとして、また島民の大切な足として、石巻市の鮎川浜と網地島を結ぶ航路を長年守り続けました。時には金華山へ資材を運ぶなど、地域の暮らしに寄り添うことが、私たちの仕事の原点です。
地域の人々の足として活躍した旅客船『第七久丸』
船長 阿部敏明
「海に還りたい」その一言から。海洋散骨の始まり
今から20年前、いつものように乗船されたお客様から、ふとご要望をいただきました。『この美しい海に、自分もいつか還りたい』。
その切なる想いに応えたい一心で、私たちの海洋散骨はスタートしました。口コミでご依頼は少しずつ増え、やがてインターネットを通じてより多くの方の想いを受け止められるよう『アイランドセレモニー久丸海運』が誕生しました。それは、私たちが時代のニーズに応えようとしたのではなく、お一人おひとりの声に耳を傾け続けた結果でした。
船長の口癖「俺が海の墓守みたいなもんだ」
父が船長だった頃、散骨をお手伝いしたご遺族によくこんな話をしていました。スタッフの阿部も、その光景を何度も隣で見ています。
『俺がここの海の墓守みたいなもんだから。寂しくないように、俺も死んだら散骨してもらって、海で一緒に楽しくやってっから!』
そんな豪快な父の言葉に、ご遺族の緊張も和らぎ、笑顔で『じゃあ、船長!後を頼みますね(笑)』と返してくださる。そんな温かいやりとりが、私たちのセレモニーにはいつもありました。それは、故人様を敬い、ご遺族に寄り添う、父なりの心の通わせ方だったのです。
幼き日の阿部と父・敏明。いつも優しく、海の話を聞かせてくれました。
最愛の母と、共に還った故郷の海
そんな父が、誰よりも深く愛していたのが母でした。生前、母が海洋散骨を希望していたこともあり、父は『自分が死んだら、母ちゃんと一緒に海に撒いてくれ』と、いつも私たちに言い続けていました。(民生委員の仕事で多忙な母に、何度も電話をかけては叱られていた父の姿を思い出します。)
母が旅立ち、その後を追うように2年後、父も穏やかにその生涯を閉じました。そして二人は、生前の希望通り、愛する故郷の美しい海へ、共に還っていきました。
この経験は、私たちにとって何よりも尊い教えとなりました。海洋散骨は、残された家族のためだけではなく、旅立つ本人のための、尊厳ある選択なのだと。
若き日の父・敏明と母。生涯を共に歩み、互いを深く愛していました。
母亡き後、ビールを飲んでは「おっ母、待ってでねー!」といつも言っていました。
先代の想いを胸に。私たちがお約束すること
父が大切にした『海の墓守』としての心。そして、両親が見せてくれた『自分たちらしい最期』の選択。その全てが、今のアイランドセレモニーの礎です。
現在、仙台・塩竃・松島・石巻・女川と、ご依頼いただく地域は広がりましたが、私たちの原点は変わりません。大切な故人様のことだからこそ、粉骨から散骨まで、一人の担当者が責任を持って寄り添う『少人数担当制』を貫いています。
それは、流れ作業ではない、血の通ったお見送りをしたいから。 私たちは、単なる運航業者ではありません。皆様の物語を受け継ぎ、故人様の新たな旅立ちを、心を込めてお手伝いする『海の家族』のような存在でありたいと願っています。
おじいちゃん、おばあちゃんまた逢いにきたよ
祖父母を海洋散骨で見送った孫とともに、石巻・サンファンパークから海を眺めました。
生前、祖父は網地島航路を支え、今は静かにこの海へ還っています。
家族を想う心を未来につなぐ。それが私たちの原点です。
アイランドセレモニーは、ご遺族一人ひとりの『ありがとう』の気持ちに寄り添い、故人様らしい旅立ちを心を込めてお手伝いします。供養のことで少しでもお悩みでしたら、どうぞお気軽にご相談ください。皆様の想いを、私たちがお預かりします。
スタッフ 阿部
創業者の父と共に船に乗り、その想いを受け継ぐ
ご相談は無料ですので、お気軽にご連絡下さいませ。
現在は自社葬儀式場 「家族葬のたびだち」も運営しています。